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東京高等裁判所 昭和42年(う)2058号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

(控訴の趣意と答弁)

検察官の控訴趣意は検察官提出の控訴趣意書に、被告人らの控訴 趣意は被告人らが連名で提出した控訴趣意書に、弁護人らの控訴趣意は弁護人杉本昌純、同水嶋晃、同宮沢洋夫、同木内俊夫、同北村哲夫が連名で提出した控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであり、被告人らおよび弁護人らの各控訴趣意に対する検察官の答弁は検察官提出の答弁書に記載されたとおりであるから、いずれもこれを引用し、これらに対して、以下当裁判所の判断を示すこととする。

(弁護人らの控訴趣意に対する判断)

控訴趣意第二の一について。

論旨は、昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下「都公安条例」という。)はその一条、三条において定める基本的な部分において憲法二一条に違反し無効であるにもかかわらず、原判決が被告人らの所為に同条例一条・五条または三条一項但書を適用してこれを有罪としたのは法令の解釈適用を誤つた違法がある、というのである。

集会、集団行進および集団示威運動(以下「集団行動」という。)が憲法二一条にいう表現の一形態であり、その自由保障されなくてはならないことはいうがまでもない。そして、事の性質上、表現の自由は他の行為の自由にもまして強い保障を受けるべきものであるから、公共の福祉に名をかりてみだりにこれに制限を加えることの許されないこともまた多言を要しないところである。しかしながら、この表現の自由といえども、あらゆる権利に本質的なその権利自体に内在する制約を免れないこともまた認めざるをえないところで、ことに、表現を目的とする行為のうち集団行動は、単に口頭または文書をもつてする表現とは異なり、身体的行動をもつてする表現ないしは身体的行動を伴う表現の形態であるから、他人の人権ないしは公共の利益と衝突する危険をよく多く含んでいることは否定できないところである。したがつて、たとえば、街頭における集団行動が同時に暴力を伴い地域住民・滞在者等の生命、身体、財産等に危害を及ぼすような形態のものである場合、それが許されないと解することは――いかなる場合がこれに該当するかの判断にあたつては十分慎重でなければならないこというまでもないが――表現の自由の内在的制約の見地からこれを是認しなければならないところであつて、そのように解したからといつて憲法二一条に違反するものとはいえない。

次に、右のように表現の自由の範囲を逸脱した集団行動を事前に禁止することが許されるかどうかにつき考えてみると、かりに禁止に値する集団行動であつても、もし表現の内容すなわち集団行動の目的に着目してこれを事前に禁止するのであれば、それはまさしく事前検閲に該当するから許されないことは明らかである。しかし、その表現しようとする事項の内容を問題とするのではなく、それとは無関係にその外形的側面である表現の方法ないし態様にかかわる集団行動の行動面の危険性だけに基づいてこれを禁止するのは、事前検閲を禁止する憲法になんら違背するものではなく、また、集団行動の性質上、現実に前述のような状況が生じた後にこれを禁止したのでは実害を防止しえない場合の多いことにかんがみれば、そのような事態を生ずる蓋然性がきわめて高く、しかもそのことが明白であるかぎり、事前にその集団行動自体を禁ずることも、必要最小限度のやむをえない措置として許容されるものと解される。

そこで、以上のことを前提とすれば、集団行動に関する法的規制としては、集団行動を行なおうとする者に対しあらかじめ所轄行政機関に届け出ることを義務づけたうえ、その届出を待つて情況により特定の場合には当該集団行動の禁止を命ずることができるとする届出制(たとえば立法例として西ドイツの集会および行進に関する法律参照)をとることも考えられる。しかし、そうではなく、形式上これを許可制としたとしても、この一事をとらえて直ちにこれを違憲無効なものと即断することはできない。要は表現の自由が不当に制限されるかどうかという実質にあるのであつて、いわゆる届出制をとつたからといつて、もし禁止命令を発することのできる範囲が広汎なもので行政機関の恣意を許すものであれば、それは違憲であるというのほかなく、反対に許可制であつても、特別の例外的な場合を除いてはすべてこれを許可すべきものとなつていて、不許可処分をすることができる場合の要件が合理的根拠のあるものでありかつ厳格に定められているものであれば、いわゆる一般的な許可制を定めて不当に集団行動を事前に抑圧するものとはいえず、これを違憲無効ということはできないのである。許可制は、一般的な禁止を前提とし、これを特定の場合に解除する形をとるものであるが、そのことは許可処分の対象となる行為がその性質上違法であることを意味するものではなく、一般的にみれば違法でない行為であつても、例外的にもせよ、他の基本的人権との関係でその行為の自由を制限する必要がある場合においては、無許可でこれを行なうことを法によつて一応禁止しておいたうえ個々的にこれを許可する方法をとることも立法形式として可能なのであり、その場合に特定の例外的な場合以外には許可することすなわち禁止の解除が建前になつているのであれば、形式は許可制でも実質は特定の例外的な場合の禁止権を留保した届出制と異なるところがなく、そのいずれを採るかは立法技術上の問題であつて、要は憲法の保障する表現の自由が実質上不当に侵害されることがなければよいのである。

ただ、この両者を比較すると、届出制の場合は行政機関の特段の禁止命令がないかぎり集団行動を自由に行なえるのに対し、許可制のもとにおいては許可処分のないかぎりその行為が行なえないことになり、行政機関がなんら許可・不許可の意思表示をしなかつた場合に差異を生ずることになる。しかしながら、憲法上平穏かつ秩序正しく行なわれる集団行動の自由が不当に奪われてならないことはいうをまたないのであるから、行政機関の許可・不許可の意思表示のない場合には許可があつたもものとみなす趣旨の規定が設けられることが望ましく、またその規定を欠くとしても、憲法の精神に照らしそのように解すべきものであつて、右のように解釈することによつて届出制と同一に帰すことができるわけである。

ところで、都公安条例についてこれをみると、同条例三条一項本文は、「集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。」と規定し、そこに定められた例外の場合のほかはすべて許可すべきことを義務づけており、しかも例外として不許可にできる場合を「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼす」場合に限るとして間接に危険を及ぼす場合を除外し、さらにその危険を及ぼすおそれが「明らか」である場合に限定することによつて厳格に制限しているのであるから、名は許可制でもその実質は例外的な禁止を留保した届出制と異ならないということができる(なお、東京都公安委員会(以下「都公安委員会」という。)が許可申請に対し許可・不許可の処分をしなかつた場合の解釈については、のちに述べるとおりである。)。そうしてみると、単に形式上許可制であるがゆえに同条例が憲法二一条に違反するということはいえないといわなければならない(最高裁判所昭和三五年(あ)第一一二号同年七月二〇日大法廷判決、刑集一四巻九号一二四二頁参照)。原判決もまた原裁判所自身の判断として右の趣旨を判示したものと解されるのであつて、単に判例に拘束されるとの立場をとつたものでないことは明らかである。

所論は、この点に関し、集団行動の許可・不許可をつかさどる都公安委員会がこの規定を正しく解してその許可権を濫用しないという保障はないという。しかし、行政機関の処分については、この場合にかぎらずあらゆる場合に濫用の可能性は存するのであつて、そのことを理由ににわかに本条例を違憲視することができないのはもちろんである。要は、そこにどのような許可・不許可の基準が定められているか、その機関にどの程度の判断の信頼性が認められるか、また濫用に対する救済措置がどのように認められているかというような諸般の点を総合してこれを決するほかはない。

所論が特に問題とするのは、前記三条一項本文中の「公共の安寧を保持する」という文言である。しかし、「公共の安寧」とはその集団行動の行なわれる地域の社会生活(公共の機関・施設の活動を含む。)の安全・平穏を指すものであつて必ずしも理解に困難な概念でもなく、この「公共の安寧」に「直接危険を及ぼす」というのはその集団行動自体により直接公共の安寧が害されることを意味し、しかもその害される程度は、事の性質上、表現の自由尊重の建前からしてもなおかつ受忍すべき限度を越える場合に限られると解すべきことは、憲法二一条の趣旨からして明らかである。もつとも、そのようにいつても、この文言がある程度抽象的なものであることは認めざるをえないところであるが、現実の複雑多様な事象に対処するためには、この程度の抽象性はやむをえないところだとしなければならない。そして、他方この規定を適用して集団行動の許可・不許可を決定する機関である都公安委員会についてみると、それは東京都知事が一定の資格ある者(任命前五年間に警察または検察の職務を行なう職業的公務員の前歴を有しないことが要件とされていることに特に留意すべきである。)の中から都議会の同意を得て任命する五人の委員から成る合議体で、政府はもちろん都知事の指揮監督をも受けない独立の権限を有する行政委員会であり、その政治的中立性と権限行使の公正とが制度的に保障されているということができる。しかも、この公安委員会がもし不許可の処分をした場合には詳細な理由をつけて東京都議会にその旨をすみやかに報告しなければならないのであるし、当事者は行政訴訟により裁判所にその取り消し等を求め、必要があれば処分の執行停止を申し立てる等司法審査の途も開かれているのであつて、これらの諸点を総合して判断すると、同条例三条一項本文が許可・不許可の基準に関しこの程度の抽象的な文言で規定しているからといつて、これを違憲無効な条例であるということはできない。

なお、所論は、同条例は都公安委員会が集団行動実施の日時の二四時間前までに許可の通知をしなかつた場合および不許可処分をした場合の通知に関しなんらの規定を設けていないから違憲であるというようにもいう。しかし、前述したように集団行動が憲法上本来自由であるべきであり、ただ例外的に禁止される場合もあることにかんがみて手続上許可制をとつているとの考え方からすれば、同条例を憲法に合致するように解釈するかぎり、集団行動実施の時までに許可・不許可の通知がないときは許可があつたものとして取り扱うという解釈をすれば足りるのであつて(現に昭和三五年一月八日付「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例の取り扱いについて」と題する東京都公安委員会決定の六には、許否の決定のあつた旨を記載した書面を「主催者または連絡責任者が受領しない等申請者の責に帰すべき事由のある場合を除き、その他特別の事由により前項の所定の時間内に交付できなかつたときは許可のあつたものとして取扱うものとする。」と定められ、右解釈と同旨の取り扱いがなされている。)、その点についての規定を欠くからといつて本条例を違憲無効とすることもできない。

また、所論は、手続を経ないで集団行動をした者に対しては無届行為として最小限度の秩序罰を科すれば足りるのに、刑罰を規定した都条例は違憲であると主張しているようにも解される。しかしながら同条例の定めている許可制が前記のように合憲であると解される以上、この手続を無視して集団行動を行なうことは違法であり(同様の手続違背は形式上届出制であつても起こりうる問題である。)、それが手続上の違法であるからといつて、これに対する制裁が必ず秩序罰であるべきで刑罰であつてはならないということはない。ただ、その科する刑罰の程度についてはもちろん問題がないわけではなく、単なる手続的違背に止まる場合に重い刑を科することは許されないであろう。しかし、本条例の違反の中には実質的に不許可すなわち禁止に値するものが許可なく行なわれる場合も含まれるのであつて、このような場合のことを考えれば、条例五条が法定刑として最高一年の懲役まで規定しているからといつて、不当であるとはいえない。それゆえ、この点の主張も採用することができない。

控訴趣意第二の二について。

論旨は、都公安条例の運用の実態は憲法の表現の自由を保障した趣旨に反するものである、すなわち、(一)憲法二一条に直結する集団行動に関する許可事務を都公安委員会が警視総監以下の機関たとえば警視庁警備部長に委任していることは、その許可条件が直接に都公安条例五条により犯罪構成要件として機能し、かつ実力規制の根拠となるところからみても、憲法の趣旨に反し、許可事務等を都公安委員会の権限に委ねている趣旨にも反するものであり、(二)警視庁警備課による事前折衝の運用は実質的には不許可処分等の役割を果たしており、(三)警備課が付与した多数の許可条件による実力規制、条例違反を理由とする逮捕権の濫用等は集団行動を不当に制圧し憲法の趣旨に反する運用であつて、以上の本条例運用の実態を総合的に判断すれば明らかに表現の自由を保障した憲法の趣旨に反するものである。しかるに本条例の運用の実態は本条例自体を違憲とする程に一般的許可制と同様の広汎な事前抑制ではないとした原判決は、事実を著しく誤認し、法令の解釈適用を誤つたものである、というのである。

そこで、所論にかんがみ、都条例運用の実態が違憲か否かについて逐次検討する。

(一)  許可事務の委任について

ある行政庁の名をもつてする行為を決定するにあたり、当該行政庁自身が必ずしもすべてこれを決裁するわけではなく、あらかじめ一定の範囲を定め、あるいは臨時にその決裁を補助機関に委任することは、通常「代決」と呼ばれ、行政機関内部の事務処理の方法として広く行なわれているところであり、このような決裁の委任は、法がその行為を当該行政庁の権限に属せしめた趣旨を没却しないかぎり、適法なものと解せられる。したがつて、都公安委員会が都公安条例三条による許可およびそれに伴う条件の付与につきその一部の代決を補助機関である警視総監、警視庁警備部長および警察署長に委ねたからといつて、そのこと自体が違法であるとはいえないことはもちろんであり、要はその代決の範囲が許可および条件の付与を都公安委員会の権限とした都条例の趣旨に反するようなものであるかどうかによつてその適否が決せられるといわなければならない。

そこでこの点につき検討してみるのに、昭和三一年一〇月二五日東京都公安員員会規程第四号、東京都公安委員会の権限に属する事務処理に関する規程」「昭和三一年一〇月二五日訓令甲第一九号、東京都公安委員会の権限に属する事務の部長等の事務処理に関する規定」、原審および当審証人山田英雄の各証言、別件における証人土田国保の証言を記載した調書、当審証人鵜飼信成の証言によれば、都公安委員会は、集団行動の許可に関する事務のうち、不許可処分、集団行進の進路、場所または日時の変更を伴う許可処分、許可の取消処分、許可条件の変更処分、その他メーデー行事または大規模な集団行動たとえば一〇万人以上の集団による集団行動、あるいは都内で複数の長い路線にまたがつて行なわれる集団行動の場合等を重要特異なものとして自らの直裁処理事項とし、右にいわゆる重要特異でない集団行動の許可処分およびその際の条件付与については警視総監に決裁の権限を与えるとともにに、警視総監がその事務を主管部長に処理させ、特に定例軽易なものについては警察署長に処理させることを許容し、以上の事務処理は都公安委員会の名をもつて行なわせ、その結果を毎月とりまとめて都公安委員会に報告させ、その承認を受けさせるという運用基準のもとに事務処理がなされてきたこと、また都公安委員会は非常勤の都公安委員による合議体であるところ、他にも多数の事務を処理しなければならぬ事情にあり、かつ集団行動に関する許可、条件付与の事務は量も多いのに迅速な処理を必要とすることが認められる。

そうしてみると、都公安委員会が都公安条例の運用についてある程度の範囲の事務の代決を警視総監等の補助機に委任しているのはやむをえないところであるし、その委任の範囲をみるのに、まず集団行動の許可事務については、代決が認められているのは許可する場合だけであり、不許可処分は必ず都公安委員会自身が決裁することになつているのであるから、集団行動をすること自体の自由が代決によつて侵害されるおそれは全くなく、許可事務を都公安委員会の権限とした都公安条例の趣旨に反するところはない。ただ、問題があるとすれば代決により許可処分に付せられる条件の内容いかんが問題となるわけで、所論ももつぱらこの点を問題とするのであるが、前掲証拠によれば、条件付与の基準は都公安委員会設立当初から都公安条例三条一項但書の各号ごとに慣行として定立されていて、そのことについては都公安委員会も了承しおり、それは都公安委員会が直裁して許可した場合その許可処分につけている条件とほぼ同一であつて、もしそれ以外の条件をつけようとする場合には原則として都公安委員会に事前に伺いを立てて了承を得ることになつており、しかも前記のようにその結果は事後に都公安委員会の承認を受けることになつていることが認められるのであつて、これによれば条件付与につき代決機関の恣意を許しているものでないことはもちろん、その代決を違憲無効たらしめない程度の都公安委員会による事前の統制と代決機関の自制とが行なわれていたことを認めることができるから、この点においても本件についての代決が違法であるとは考えられない。

(二)  いわゆる事前折衝について

次に、いわゆる事前折衝について考えてみるのに、一件記録および当審における事実取調の結果によれば、原判決が説示するように、若干規模の大きい集団行動等については、許可申請書提出前に主催者あるいは責任者が警視庁警備部警備課において同課集会係係官と面談して主として行動の進路、開会、出発の時間等につき企画を説明し、これに対し集会係のほうからも要望を出して折衝し、双方の了解が成立したうえでその了解に基づき許可申請書提出の手続が行なわれており、これが事前折衝と呼ばれるものであること、そして、この折衝は、係官だけの判断によつて行なわれるものではなく、直接都公安委員会の方針に従い、あるいはその代決の委任を受けた警視総監または警視庁警備部長の意を受けてこれに代つて行なわれていたものであることを認めることができる。そこで、まずこのような事前折衝行為そのものの当否について考えてみると、行政庁がある行為に対し許可・不許可の権限を持つ場合に、許可を申請しようとする者との間に事前に話し合いを行なつて当局の許可の方針を説明すること自体は別段差支えのないところであり、許可を申請しようとする者にとつてはいかなる申請をすれば許可されあるいは不許可になるかをあらかじめ知ることによつて無用の許可申請をしないですむ便宜は少なくない。ことに公安条例による集団行動の許可申請については、原判決も説示するように、もしせつかくの申請に対し不許可または進路、時間等の変更の処分などがあれば、時期が接近しているのが通常である関係上、これを参加予定者に周知徹底することが困難となつて混乱が生ずるおそれのあることを考えると、事前折衝の必要性とそれによる便益は他の場合以上に大きいとみることができる。したがつて、本件集団行動に関しいわゆる事前折衝が行なわれ、その際主催者側では本来集団示威運動を希望していたのに、係官から国会開会中は国会周辺の集団示威運動は遠慮してほしいとの都公安委員会の意向を伝えられたところから、国会周辺の集団示威運動の許可申請をしても不許可となるであろうことをおそれ、集団行進とすることに方針を切りかえたとしても、それは要するに事前折衝を通じて予想されたところに基づき自らの意思を変更したにすぎないものであつて、もし申請者側の意思決定に影響を与えたものがあるとすればそれは都公安委員会の方針それ自体なのであり、これを伝えた事前折衝という手続そのものが問題であるわけではない。ただ、事前折衝も、もしその衝に当たる係官がその際都公安委員会の方針を正確に申請者側に伝えず独自の考えを押しつけるようなことがあると、申請者側の判断を誤らせることにせなり、あるいは事前折衝の段階で双方の意思が一致しないかぎり許可申請を受けつけないというようなことがあれば、結局は当局の方針に従わないかぎり許可申請の自由を認めないこととなつて、違法、不当となることを保しがたい。しかしながら、一件記録および当審における事実の取調の結果によれば、本件事前折衝に当たつた係官が都公安委員会の方針を誤り伝え独自の見解を押しつけた形跡は認められないし、また、事前折衝がなされるまで警察署長が一時許可申請書の受理を留保するという慣行はあつたにしても、事前折衝において合意をみないかぎり許可申請書の受理・進達をしないというような事実はこれを認めることができないから、この点に違法があるともいえない。

(三)  実力規制措置等について

この点につき原判決が認定するところも正当であつて、本件において警察官の実力規制措置が一般的に表現の自由の行使である集団行動を不当に制限圧殺し、憲法の趣旨に反する運用をしたとまではいうことができず、一件記録を検討し、当審における事実取調の結果に徴しても事実誤認を疑わせるものはない。

のみならず、かりにその実力規制措置の面で違法・不当な点があつたとしても、それに対しては個々的に制裁ないしは是正の方法が開かれているのであつて、そのことがさかのぼつて許可処分全体の効力なり有効な条件の違反による起訴を無効ならしめるものでなく、また濫用のおそれがありうるからといつて、本条例を違憲と解することの失当であることは、前示昭和三五年七月二〇日の最高裁判所大法廷判決の判示するとおりである。

これを要するに、本条例の運用の実態は、すでにみてきたように表現の自由を不当に制限するものとして、本条例自体を違憲無効ならしめるものとはいえず、この点について原判決に事実誤認ないし法令適用の誤りがあるとは認められないから、論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第二の三について。

論旨は、無許可ないし条件違反の集団行動の主催者、指導者等の処罰を定める都公安条例五条の規定はその処罰の実質的合理的根拠を欠くものであり、また「主催者」「指導者」等の概念は犯罪構成要件としてきわめて不明確であるから憲法三一条に違反して無効であるとの弁護人の主張を原判決は排斥してこれを合憲としたが、この判断は法令の解釈適用を誤つたものだ、というのである。

しかしながら、すでに弁護人の控訴趣意第二の一に対する判断の中で説示したところから明らかなように、都公安条例は集団行動が憲法上本来自由になさるべきものであることを前提としたうえいわゆる義務づけられた許可制を採用したものと解されるのであつて、集団行動をそれ自体違法でありその性質上禁止せらるべき行為であるとみているわけではない。そして、かかる観点からすれば、許可制をとつている以上無許可で行なわれた集団行動が違法であることは認めざるをえないところであるが、その違法性の内容は、通常の場合、すなわちその集団行動が特に禁止せらるべきものではなく許可を申請すれば許可せらるべきものである場合には、形式独的な単なる手続違背の性質をもつものと解するのが相当で、無許可の集団行動が行為そのものとして違法となるのは、それが例外的に禁止に値するものであるのに許可申請をせずにこれを行なつた場合か、もし許可手続を経ていれば付せられたであろう違反する行動に出たような場合が、そのいずれかの場合に限ると考えられる。しかし、右のように行為の違法性が手続違背的性質のものであるにせよ、ともかく違法である以上は、法令によつてこれに対し相応の刑事制裁をもつて臨むことを妨げるものではない。そして、その場合の違法行為とはなにかといえば、許可を受けていないという状態(許可のあつたものと解釈される場合がこれにあたらないことは前に説示したところから明らかである。)のもとにおいて集団行動をすることつまり集団行動をしたことが違法行為にあたるのであつて、許可申請をしなかつたという不作為が違法行為であるわけではない。このことは、許可申請をしなくとも、集団行進さえ行なわなければなんら違法の問題を生ずる余地がないことからみても明らかである。そうであるとすれば、無許可で集団行動が行なわれた場合においては、これに参加し関与した者はすべて前述の意味における違法行為をしたものにほかならないのであるが、都公安条例は、集団行動の特質を考慮して単なる参加者に対しては刑事罰をもつて臨むことを差し控え、責任の重いとみられる主催者、指導者、煽動者だけを処罰の対象としているのであるから、そのことが違法・不当でないことはいうまでもないところである。この点につき所論は、許可申請をしないこと自体を違法行為であるとみる前提の上に立つて、その後に現実に行なわれた集団行動の指導者、煽動者を処罰することを違憲であるとして非難するもののごとくであるが、その前提が誤つていることは前述のとおりであるから、その立論はとうてい採用することができない(無許可の集団行動の指導者、煽動者を処罰の対象とする都公安条例五条は憲法三一条に違反しないとする最高裁判所昭和四〇年(あ)第一〇五〇号昭和四一年三月三日第三小法廷判決、刑集二〇巻三号五七頁参照)。

また、所論は、条件違反の集団行動の主催者、指導者等を処罰することは憲法三一条に違反するとも主張しているもののようである。しかし、付せられた当該条件が違憲、無効のものでないかぎりはその条件に違反する行為が違法であることは当然であり、都公安条例五条が処罰の対象としているのは当該条件違反行為を現実に指導しまたは煽動する等の行為をした者に限られることは同条の解釈上明白であるから、なんら同条が違憲であるとはいえない。

なお、所論は、「主催者」、「指導者」、「煽動者」の概念はあいまいであるから同条例五条は憲法三一条に違反するとも主張する。しかしながら、無許可ないし条件違反の集団行動の「主催者」「指導者」「煽動者」の各概念は原判決が説示しているように法概念としてその意義をそれぞれ明らかに把握することができるのであつて、その意味内容がきわめて不明確であいまいであり憲法三一条の罪刑法定主義に違反するとの所論は採用しがたい。

そうだとすると、都公安条例五条は結局憲法三一条に違反するとはいえないから、論旨は理由がない。

控訴趣意第三の一について。

論旨は、都公安条例三条一項但書の規定は都公安委員会が許可の条件を付与するについての明確な基準を欠き、包括的事項に関し同委員会に広範な裁量権を与える結果、同委員会が不当に多くのきびしい条件を付することにより事実上不許可処分をするのと同様の結果を生じさせるおそれがあり、しかもそのような結果の発生を防ぐ制度的保障も欠き、憲法二一条に違反して無効である、なお、同条例三条一項六号の定める条件は実質上全部または一部の不許可処分たる性質を有するのに、その付与の基準も抽象的、不明確であつて憲法二一条に違反して無効であるから、これらの点で原判決には法令適用の誤りがある、というのである。

そこで考えてみるのに、都公安条例三条一項本文によつて許可される集団行動につき同項但書が必要な条件をつけることができると規定しているのは、集団行進および集団示威運動が平穏かつ秩序正しく行なわれない場合には、時として公共の秩序を乱し、地域住民、滞在者等の基本的人権を侵害することがあるため、かかる事態を防止するためにほかならない。そして、このように条件を付することによつて制限を加えるのは表現自体ではなく単なるその行動的側面であるから、その条件を付する基準も集団行動そのものの許可・不許可の基準とはおのずから差があつてよいことのちに述べるとおりであるが、そうはいつても、事は憲法の保障する自由権の制限に関するものであり、ことにはその行動面が表現の自由と不可分の関係にある場合もあることを考えると、その場合につけられる条件は、それによつて集団行動による表現の自由を本質的に抑圧するようなものであつてはならないのはもちろん、そうでないものであつても、集団行動の日時、場所、規模、態様、地域の実情等に応じその条件によつて規制される行為の憲法上の意義とこれによつて侵害される地域住民等の利益とを慎重かつ細心に比較衡量したうえ、必要な最小限度のものに止められるべきものであることはいうまでもないところである。ただ、これらの条件は、その性質上、前記のように具体的事情に即して必要な限度で付せらるべきものであるから、画一的規制の弊害を避けるためにも、これをつけることを行政機関に委任し、これにある程度の裁量権を認めることはやむをえない相当な措置であるといわなければならない。ところで、都公安条例三条一項但書をみるのに、都公安委員会が条件をつけることができるのは同条一項各号に列記された事項に限られているのであるし、その付する具体的条件が前記のような趣旨で必要な最小限度に止められるべきものであることは右各号の内容および条例全体の趣旨からしておのずから明らかであるから、条件の付与に関し決して公安委員会の恣意的な自由裁量権を認めているものでなく、まして事実上不許可にするのと同一の結果を生ずるような条件付与を許すものでないことは多言を要しないところである。そして、その条件付与は前に説明したように独立した合議制の機関である都公安委員会がこれを行なうこととされているのであるし、条件付与につき都公安委員会の権限濫用を抑制する制度的保障が都公安条例自体には規定されていないにしても、その濫用に対しては行政訴訟により条件付与の処分取消等を求め、あわせて処分の執行停止を申立てることも可能であり、事後的にせよ、損害賠償の請求、罰則適用にあたつての条件の当否の判断等司法的救済の途は開かれているのである。

なお、都公安条例三条一項但書六号に定める条件は、集団行動の進路、場所または日時を変更するものであつて、集団行動をすること自体を絶対に禁止するものではない点で同項本文による不許可処分とは異なるものの、他の条件がいわば行為の態様を制限するものであるのに対し、日時、場所に関して集団行動そのものに制限を加えるわけであるから、その条件付与については表現の自由を不当に害することのないよう特に慎重でなければならず、その措置が特に必要な最小限度に止まらなければならないことは当然である。しかし、同号の規定をみると、進路、場所または日時の変更については、他の号の場合と違つて、公共の秩序または公衆の衛生を保持するため必要がある場合に限ることが明記されているほか、他の条件は必要であればつけることができることとなつているのに対し、同号だけは単に必要があるだけでは足りず、「やむを得ない場合」であることを特に要件としているのであるから、前記のように同号による制限が特に慎重でなければならないことを示すため立法上十分の配慮がなされているということができる。そして、このことと、同条例三条一項本文がそこに示された基準のもとに集団行動そのものの許可・不許可の権限をも都公安委員会に委ねたことが前にも述べたように合憲と解されることとを考え合わせれば、同項但書六号が右のような基準によつて都公安委員会に進路等の変更の権限を認めたからといつて、これを違憲であるとすることはできない。

以上の次第で、条件付与に関する都公安条例一項但書各号は憲法二一条に違反して無効であるとはいえないから、論旨は理由がない。

控訴趣意第三の二について。

論旨は、都公安条例五条は地方自治法一四条五項による刑罰立法の一般的包括的な条例への委任に基づくものであるが、かかる委任は正当手続条項(憲法三一条)と一般的委任命令禁止条項(憲法七三条六号)で定めている罪刑法定主義に反するもので無効であるばかりでなく、同条例五条のうち三条一項但書の規定による条件違反の集団行動の主催者らを処罰する部分は白地刑罰法規であるところ、その補充規範たる条件は一般に告知されず、しかもその内容はあいまい不明確であり、その違反に対する法定刑は合理的根拠を欠いている、なお条件付与が警察官に委任される場合のあることも補充規範定立手続が適正を欠くものであるから、要するに都公安条例五条は憲法三一条に違反して無効であるのに、これを有効とした原判決は法令の適用を誤つたものだ、というのである。

よつて、考えてみるのに、

(一)  刑罰を規定するには原則として法律をもつてしなければならないことは憲法三一条の規定上明らかであるけれども、法律の授権があればそれ以外の法令によつても刑罰法規を設けることができると解せられるところ、地方自治法一四条五項はまさにこの罰則制定を地方公共団体の制定する条例に授権した規定で、所論の都公安条例五条はこれに基づいてその授権の範囲内で設けられた規定であることは疑いない。ただ、法律による授権といつても、無条件の白紙委任的なものであつてならないことは当然であるところ、地方自治法一四条五項をみると、その授権がある程度包括的であることは認めざるをえないところである。しかし、その対象となる事項は同法二条二項・三項に明示されているのであるし(同法一四条一項参照)、規定することのできる法定刑の範囲も比較的軽いものに限定されている。そして、そのことと、条例が行政機関の定める政令以下の命令と異なり公選の議員をもつて組織する地方公共団体の議会の議決を経て制定される自治立法であることとをあわせ考えると、この程度の授権が憲法の趣旨に反するといえないことは最高裁判所昭和三一年(あ)第四二八九号同三七年五月三〇日大法廷判決(刑集一六巻五号五七七頁)の判示するとおりであるから、その点で都公安条例五条が憲法三一条に違反するとの論旨は採用することができない。

(二)  次に、所論は、都公安条例五条のうち条件違反を処罰する部分は白地刑罰法規だと主張する。しかし、右の部分の構成要件は、第三条第一項但し書の規定による条件……に違反して行われた集会、集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者」ということなのであつて、それ自体で完成された刑罰法規をなしているとみるべきものである。都公安委員会が条件をつける行為は、一の行政処分であり、その条件に違反したという事実がこの構成要件に該当することになるとみなければならない。それゆえ、条件の付与が都公安委員会の権限とされているからといつて、刑罰法規の一部(所論のいう補充規範)の制定を同委員会に委任したことにはならず、条件をつけることはなんら刑罰法規の立法には該当しないのである。したがつて、付した条件を一般の刑罰法規のように公示することは必要でなく、これに従う義務ある者だけに周知の方法をとれば足りるところ、条例三条二項によれば、都公安委員会の付した条件の内容は集団行動を行なう日時の二四時間前までに主催者または連絡責任者に書面をもつて告知されなければならないのであるから、これを参加者に周知させる機会は十分に存するのである。

(三)  所論は、また、本件において付せられた条件の中には、違法なもの、単なる注意事項に過ぎないもの、あいまい不明確なものがあるので、犯罪構成要件としての適格性を欠くというようにもいう。しかし、条件が犯罪構成要件そのものでないことはすでに説示したとおりであるから、個々の条件の有効無効は構成要件の効力とは別の問題で、もし個々の条件が違法もしくは意味不明確で条件として無効であるか、または単なる注意事項にすぎないとみられる場合はその違反行為を条件違反として処罰しなければそれで足りるのである。

(四)  また、所論は、右条例五条が条件違反についても一年以下の懲役もしくは禁錮又は五万円以下の罰金に処することとしているのは処罰の合理的根拠を欠いていると主張する。しかしながら、前述のとおり条件が公共の秩序、住民・滞在者等の基本的人権保護のために付せられるものであることを考えると、その違反の程度ないしは公衆に与えた損害等その情状のいかんによつては右の法定刑の長期を相当とする場合も予想されないことではないから、この程度の法定刑を設けたことが憲法三一条に違反するほど罪刑の均衡を失しているとはとうていいえないばかりでなく、右の五条の規定は、条件違反ばかりでなく、本来許可さるべきでないのに無許可で集団行動が行なわれたような情の重い場合にも適用されることが予想されているのであつて、これらの諸種の違反行為をこの程度の法定刑で一括して規定してもあながち不当であるとはいえない。それゆえ、この点の主張も採用することができない。

(五)  所論はまた、都公安委員会が重要特異でない集団行動の条件付許可処分につき警視庁の警察官にその代決を許しているのは白地刑罰法規の補充規範の定立手続において適正を欠くと主張する。しかし、条件をつけることが行政処分であつて刑罰法規の立法に属しないことはすでに述べたとおりであるうえに、同条例五条は所論の代決につきなんら規定しているわけではないから、代決の問題が同条の合憲性に影響するものでないことはいうまでもないところである。したがつて、所論は結局いわゆる代決を違法であるとし、これによつてつけられた個々の条件の適法性を争うことに帰着すると解されるが、この代決の適否の点についてはすでに弁護人の控訴趣意第二の二に対する判断の中で説示したとおりであるから、ここには改めて繰り返さない。

以上の次第で、本論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第三の三の(一)、(二)について。

論旨は、本件各条件付許可処分は憲法二一条、三一条に違反し無効であるのに、これを合憲・有効とした原判決には法令の適用の誤りがある、すなわち、(1)原判決は都公安条例三条一項但書の条件付与について、公共の安寧に対する直接の危険の発生が明らかに認められる場合ばかりでなく、その危険の発生の虞れがある場合にもまたその予防のために必要な最小限度の条件を付し得ると解しているが、都公安条例三条一項但書の規定が辛うじて合憲性を保つためには、集団行動に付与される条件は、その条件を付することなく集団行動を許すならば公共の安寧を保持するうえに直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合に限り、その限度において付しうるに過ぎないと解するほかはないから、右の点で原判決には法令の解釈適用に誤りがあり、(2)本件における「ことさらなかけ足行進」の禁止、「行進隊形は五列あるいは六列縦隊とすること」、「だ行進、……、すわり込み、先行てい団との併進、追越し等交通秩序をみだす行為をしないこと」という条件は、「ことさらなかけ足行進」「交通秩序をみだす」など概念として不明確なものを含み、また、その違反に対して刑罰を科するに足りる実質的な合理的理由を欠いているから、かかる行為を一律無差別に可罰的に禁止することは道路交通上の利益を常に集団行動に優先させ、表現の自由を不当に制限ないし禁圧するもので、憲法二一条、三一条に違反する無効な条件であり、(3)原判決は本件刑事事件に適用されていない注意事項ないし違法の疑いがある条件を本件各条件から全く切断して、国会周辺の集団行動についての「合唱、かけ声、シュプレヒコール等示威にわたる言動は行わないこと」という条件はこれを別とし、本件各条件の適法性を強調するけれども、前者の条件違反を理由とする都公安条例四条の即時強制や現行犯逮捕等は集団的表現の自由に対する重大な侵害であり、一部の条件付与が違憲(違法)無効である場合にも許可処分自体の効力が問われなければならない、というのである。

そこで、所論の各論点について、順次考察することとする。

(一)  まず、都公安条例三条一項但書によつて条件をつける基準につき検討してみるのに、それが集団行動による表現の自由を本質的に抑圧するようなものであつてはならず、また、そうでなくとも必要最小限度のものに止めらるべきことは、すでに弁護人の控訴趣意第三の一に対する判断の中で述べたとおりである。しかしながら、同項本文による集団行動そのものの許否の基準とこれを許可した場合の同項但書による条件付与の基準とが同一であるべきかどうかについては、集団行動を許可しないことは、まさに一定の表現をすること自体を禁止するものであるから、憲法二一条の保障との関係上きわめて慎重でなければならず、例外的な場合としてその要件を厳重に定める必要があるのに対し、許可処分につけられる条件は、表現行為そのものはこれを認め、ただその実施の際の行動的側面に対してある程度の制限を加えるのにすぎないから、その条件をつける基準は、不許可の基準とは趣きを異にし、一般的にいえばそれよりゆるやかであつて差支えなく(ただ、同じ条件でも、同項一号から五号までの事項に関する条件と六号の進路、場所または日時の変更とではその基準におのずから差のあることは前に述べたとおりである。しかし、この後者の基準も、集極行動それ自体の不許可の基準と全く同一であると考えなければならないものではない。)、そのことは、同項本文が不許可の基準として集団行動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合に限るとしているのに対し、条件については但書が単に「必要な条件をつけることができる。」と規定しているにすぎないことからも認められるところである。したがつて、条件をつけることによつて保護さるべき法益としては、公共の安寧(社会生活の安全・平穏)と呼ばれるようなものに限定されることなく、たとえば交通秩序すなわち交通の安全と円滑というような公共の利益もまたその法益たりうるのであつて、原判決のいうように公共の安寧に対する直接の危険の発生するおそれのある場合に限らず、但書各号に定められた事項から窺える各種の法益を保護するためにも条件を付することができると解するのが相当である。そして、条件付与に際しては、一方においてその行為による公共の利益の侵害の態様、程度を考え、他方において条件により制限しようとする行為のもつ意義特にその行為が集団行動による表現にとつて必要不可欠であり他の方法をもつてしては代えることができないかどうか等を慎重に考慮し、両者の比較衡量によつてこれを決定すべきものと考える。

以上の次第で、「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」に限つて条件を付することができるとする所論は採用することができない。

(二)  次に、所論の「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足行進、おそ足行進、停滞、あるいは先行てい団との併進、追越しまたはいわゆるフランスデモ等交通秩序をみだす行為をしないこと。」という条件について考えてみるのに、この条件がもしそこに明示的に列挙されただ行進、うず巻き行進などの各行為のほか「交通秩序をみだす行為」一般をも禁止しているものと解するならば、その「交通秩序をみだす行為をしないこと」という条件の文言は、はたしてどのような行為まで指すのがあまりに抽象的で不明確だといわなければならない。しかし、本件において原判決の認定した各行為は、いずれも右のような単に抽象的に交通秩序をみだしたという理由で条件違反とされているのではなく、その前に列挙された具体的な条件の違反だけが問題となつているのであるから、その点はここではそれ以上問題としない。そこで、進んで、所論が問題としている「ことさらなかけ足行進」という文言について考察すると、そのうち「かけ足行進」という概念が社会の一般常識から考えて不明確といえないことはいうまでもないところであり、「ことさらな」というのはこれを必要とする正当な事由がないのにわざとという意味であることはこれまた日常の用語として十分理解できるところである。それゆえ、右の文言が憲法三一条に違反するほど不明確なものであるとはとうてい考えられない。

次に、所論は、「ことさらなかけ足行進」を禁止することは実質的・合理的な根拠を欠くと主張する。思うに、東京都内の主要街路のように常に交通量の多いところで集団行進または集団示威運動が行われれば、その反面として一般の交通が相当阻害され一般公衆が不便を被ることはいうまでもないところであるが、集団行動が憲法の保障する表現の自由の行使である以上、集団行動を行なうことそのことによつて生ずる交通の不便はもとより甘受せざるをえないところである。しかしながら、集団行動なるがゆえにいかなる交通の阻害・混乱を生じてもよいものでないことはもちろんであつて、いま行進に際しての集団の速度についてこれをみれば、一般の交通に混乱を生じないためには、集団が通常予想される速度すなわち通常の歩行の速度で進行するとが最も望ましく、交通取締官憲はその予想に基づいて一般の交通を規制し、それによつて一般交通と集団行動との混乱を防止することができるのである。ところが、これに反し、もし東京都内の交通量の多い主要街路で集団がかけ足で行進したりすれば、その進路にある車両や歩行者の交通に不測の混乱を生ずるおびそれがあるばかりでなく、その結果として一般公衆や行進者側に死傷の結果を生ずることすら保しがたく、また、集団が多数の梯団より成る場合など、その一部の梯団のみがかけ足をすれば、集団全体の進行を混乱に陥れ、ひいては重大な交通の混乱を生じ、一般市民の社会生活にもすくなからざる支障を及ぼすおそれもあるのであつて、これらの点を考慮すれば、「ことさらなかけ足行進」を禁止することには十分合理的な根拠があるものと考えられる。また、所論が同じく合理的根拠を欠くと主張する隊列に関する条件につき考えてみると、集団行進ないしは集団示威運動といえどもその表現の目的達成に十分であるかぎり一般市民の公共の利益との調和の観点からある程度の制約を受けるのはやむをえないものであるところ、東京都内の交通ひんぱんな主要道路においては、たとえ一定時間内であつたとしても一般の交通を完全に停止することは市民に与える不便さは図り知れないものがあり、そのためには一般車両の通行の余地を残すため隊列の幅を一車線内に制限することとし、したがつて行進隊形を五列もしくは六列というように定めることには合理的理由があるものといわなければならない。

なお、「だ行進、うず巻行進、ことさらなかけ足行進、停滞等」も、集団的表現の一形態であることは認められるにしても、右のような形態の表現方法をとらなければ当該集団行動の表現の目的を達することができないとはいえない反面、かかる行為が著しく交通秩序を妨げ、時として公衆の生命、身体等にも不測の害を及ぼすおそれもあることを考えると、右のような行為が禁止されることは表現の自由の内在的制約にほかならない。また、その制限は、集団行動実施の日時、場所、態様等の具体的実情に照らし、規制される集団行動とこれによつて生ずる公共の利益と侵害との較量において必要最小限のものとして課せられたものと認められ、決して一律無差別に集団行動を規制したものとはいえないから、一般的無差別な不当な自由の侵害であるともいえない。それゆえ、右のような条件が本件集団行動に付されたとしても道路交通上の利益を原則的に集団行動の自由に優先させたものというわけではなく、憲法二一条に違反するとの所論も採用できない。

(三)  さらに、本件許可処分の条件中、注意事項ないし違法あるいは違法の疑いがある条件が混在している以上、条件付許可処分全体の効力が問われなければならないとの所論については、次の「本件各条件付許可処分の全体としての違憲性」の論旨に対する判断として述べるところに譲ることとする。

控訴趣意第三の三の(三)について。

論旨は、原判決は、本件許可処分に付せられた条件を適法な条件のほか、注意条項・特別の義務を定めたものでない条項・違法あるいは違法の疑いのある条件に類別し、右許可処分は、注意条項を除けばおびただしくかつ厳しい条件を付しているとはいえず、全体として集団行動の自由を不当に制限するものではないと説示したが、このような類別が不明確であるのみならず、実際にはおびただしい違法、違憲の条件が付与されていると認められるから、それらの条件全体とともに許可処分そのものも憲法二一条に違反するといわなければならず、原判決には法令の適用を誤つた違法がある、というのである。

しかしながら、都公安条例三条一項但書により条件を付する行為は、集団行動の主催者、指導者、参加者等に一定の義務を課する行政処分であつて、右の条件は講学上付款の一種たる負担と呼ばれるものに属し(ただし、但書六号による進路、場所または日時の変更についてはその性質に若干疑問があるが、ここではこれ以上その点には立ち入らない。)、集団行動の許可処分に付随するものであるため、主たる許可処分が無効であれば条件もまた無効たらざるをえないけれども、ここにいう条件は基本となる許可処分と性質上不可分に相結合する狭義の条件とは異なり、許可処分自体とは一応別個の行政処分であり、しかもその負担の内容はそれぞれ別個であるから、各条件ごとに別個な行政処分であると解すべきである。それゆえ、かりに許可処分に付せられた各条件のうち、その実質が単なる注意事項であるに止まり条件としては無効であるもの、その他違法で無効な条件が存在するとしても、それはその条件のみを無効ならしめるに止まり、許可処分それ自体を無効ならしめるものでないことはもちろん、他の条件との関係においても、その間に不可分の有機的関係があるような特殊の場合を除いては、他の条件の効力を左右するものではない。そして、無効な条件の違反を理由として公権力の行使がなされたような場合には、その個々の問題ごとに法的な措置を考慮すれば足りるのである。所論は許可処分および各条件付与の処分を一体としてその効力を論ずべきであるとの独自の見解を前提とするものであつて採用しがたく、論旨は結局理由がない。

控訴趣意第四の一――一〇・一五昼事件(被告人国吉毅)――について。

論旨は、原判決の被告人国吉に対する右事件の有罪部分につき、かりに本件に適用されている「行進隊形は五列」および「ことさらなかけ足行進……」という条件が違憲無効でないとしても、本件集団行動の動機、目的の重大性に比し、隊列も所与の制限隊列から僅か三列しかオーバーしておらず、そのかけ足行進もとくに交通阻害をもたらしたとは認められないなどきわめて軽微な違法行為であることなどからみると、本件行為は可罰的違法性ないし実質的違法性を欠くものであるから、原判決には法令の解釈適用を誤つた違法がある、というのである。

そこで考えてみるのに、本件の集団行進が東京都心の交通量の多い場所、時間における多人数によるものであることを前提として考えると、所論の条件は交通秩序維持のための基本的な必要最小限の条件として理解することができるところ、本件の場合約一、〇〇〇人の集団が原判示のような都心の主要街路において午後四時一六分ころから午後四時一八分ころまで隊列五列との条件を無視し終始約八列となつて行進し、その間午後四時三三分から三四分ころまでの間ことさらなかけ足行進を行なつたものであり、被告人国吉は右隊列違反ならびにことさらなかけ足行進を指揮誘導したものである。そして、本件集団行動が日韓条約批准反対の意思を表明するために行なわれたものであるにせよ、その意思を表明するためには必ずしも右のように隊列をオーバーする必要もなく、またことさらなかけ足行進をしなければならないものでもない反面、交通量の多い右のような街路上においていわゆるラッシュアワーのころ大量の集団が右のような行動に出るならば、秩序ある集団行進が行なわれず、現実に交通を阻害し一般市民の社会生活に重要な支障を及ぼすことは控訴趣意第三の三の(二)に対する判断の中で述べたところからみても明らかであり、また、勢の赴くところ人車の接触その他の事故により公衆の生命、身体等に直接危険を及ぼすおそれもあると認められるのであるから、集団行動による表現活動としての相当な範囲を逸脱したもので、実質的違法性を欠くものとはとうていいえず、また被害法益との関連からみてきわめて軽微な違法性を有するにすぎないものとして、可罰的違法性を欠くものと解することもできない。

したがつて、原裁判所が被告人国吉の右所為について可罰的違法性があると認め刑罰を科したことは首肯しうるところであつて、法令の解釈適用を誤つた違法があるとはいえない。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第四の二――一〇・一五夜事件(被告人国吉、同斎藤、同玉川)――について。

論旨は、原判決は、本件公訴事実中、(A)都学連の集団行動に関しては、(イ)被告人国吉の隊列違反のことさらなかけ足行進指導の事実および(ロ)すわり込みの指導の事実、(ハ)被告人斎藤のことさらなかけ足行進指導の事実、(ニ)被告人斎藤、同国吉共謀のすわり込みの指導の事実、(B)社青同の集団行動に関しては、被告人玉川のすわり込みの指導の事実の一部をそれぞれ有罪と認定したが、かりに本件許可処分が合憲であつて本件条件が有効であるとしても、本件集団行動は日韓条約批准の緊急かつ重大な事態に際し、それに反対する目的で行なわれた正当なものであつて、前記各条件違反はその態様に照らしきわめて零細なあるいは軽微な違法行為というほかなく、それらは可罰的違法性を欠き構成要件該当性がないか、あるいは動機、目的の正当性、手段方法の相当性、法益の権衡等の点で実質的違法性を阻却するものであつて、無罪とされなければならないのに、被告人らに有罪を宣告した原判決には法令適用の誤りがある、というのである。

そこで、所論の各具体的行為について検討してみると、まず、所論の(A)(イ)については、約九〇〇人の集団が都心の主要街路において当日午後七時四九分ころから午後八時七分ころまで終始約八列で行進したところ、被告人国吉において右約八列でのことさらなかけ足行進を指揮誘導したものであつて、第四の一に述べたところと同じ理由から、右所為は実質的違法性ないし可罰的違法性を否定し去ることはできないから、原判決に所論のような法令適用の誤りを見出すことはできない。

つぎに、(A)(ハ)について考えてみるのに、被告人斎藤は同日午後八時八分ころ衆議院西通用門路上において約二分間、約二―三〇〇名の学生によることさらなかけ足行進を指揮誘導したものであつて、当時警官隊のほかに一般に通行する人車がなかつたにせよ、前に説示したところに照らせば、かかる行為は、集団行進全体の秩序を乱す結果ひいては他の場所における交通秩序をも混乱させ、公衆の社会生活に支障を及ぼすおそれが現実に存したと認められる反面、右行為は集団的意思表示として欠くべからざるものではないことをかれこれ較量すると右所為も集団行動として相当な範囲を逸脱したものというべく、実質的違法性が認められるのはもとよりその違法性が軽微で可罰的違法性を欠如するものとも解しがたい。

さらに、(A)の(ロ)、(ニ)のすわり込みは約二―三〇〇名の学生集団が同日午後八時一〇分ころから議員面会所前車道上に、約六―七〇〇名の学生集団が午後八時一九分ころから議員面会所前歩道上に、いずれも午後八時五二分ころ機動隊の規制を受けるまで、それぞれ約三―四〇分間すわり込んだものであつて、日韓条約批准反対等の意思を表明するために行なつたものであつても、そのため少なくとも一般交通の再開を遅延させたことは疑いがなく、そのことは、まさに著しく交通秩序をみだし、地域住民等の社会生活の利益に少なからざる支障を及ぼしたものにほかならないから、集団行動としての相当な範囲を逸脱したものであり、その所為が実質的違法性ないしは可罰的違法性を欠如するものとは解しがたい。

さらに、(B)のすわり込みは、社青同員約二五〇名が同日午後九時五分ころから九時一〇分ころまでの間に車道上にことさらなすわり込みをすることを被告人玉川において指揮したものであつて、右所為もその人員、日時、場所、態様にかんがみ、右所為の有する憲法上の意義とこれによつて著しく交通秩序をみだし、公衆の社会生活に重要な支障を及ぼすおそれが現に存したももと認められることとを較量すれば、集団行動としての相当性を欠くものであり、実質的違法性または可罰的違法性を欠如するものとは認めがたい。

右の次第で、論旨は理由がない。

控訴趣意第四の三の(一)――一一・五事件(被告人岡部に関する部分)――について。

論旨は、原判決は被告人岡部および原審相被告人平野が他の者と共謀のうえ約一〇列での行進を指導した事実を認定しているが、昭和四〇年一一月二二日付起訴状によれば、この事実は訴因に含まれておらず、審判を求められた事実の範囲外であるから、原判決には訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、被告人岡部に対する昭和四〇年一一月二二日付起訴状をみると、その冒頭の部分には同被告人の参加した集団行進に際し集団にに参加した学生らが許可条件に違反し約六列ないし約一二列となつてことさらなかけ足行進その他の行為を行なつたことが記載されており、これに続いて被告人岡部に対する公訴事実第一として、「……道路上において、約六列となつた右学生隊列の先頭列外中央付近に位置し、前向きあるいは後向きとなつて両手を上げ、これを振り、あるいは笛を吹き、『日韓条約粉砕』のシュプレヒコールの音頭をとるなどして、かけ足行進、停滞の指揮をし、」とその具体的行動が記載され、全文の末尾は、同被告人および原審相被告人平野につき「もつて、それぞれ右許可条件に違反した集団行進を指導したものである。」と結ばれている。

そうしてみると、被告人岡部に対してかけ足行進と停滞の指揮が訴因とされていることは明白であるが、隊列違反の指揮が訴因として含まれているか否かについてはたしかに検討を要するものがあるといわなければならない。しかしながら、本件起訴状の公訴事実の記載のしかたは、前記のように、まずその冒頭部分に集団そのものの行動特にその具体的な条件違反行為を叙述し、次いで第一、第二として各被告人のこれに対する指導の事実を記載する構成をとつているのであるから、冒頭部分とあわせて読むのでなければ各被告人に対する訴因の意味も十分に理解できない関係にあるところ、本件起訴状の冒頭の部分に前記のように約六列ないし約一二列となつた隊列の条件違反の事実が掲記されており、これを受けて被告人岡部に対する第一の部分にわざわざ「約六列となつた右学生隊列」と記載され、そのかけ足行進、停滞の指揮をしたと記載されているところからみれば、やはり隊列違反の指揮もまた同被告人に対する訴因とされているものと解することができる(ちなみに、第一の末尾の「かけ足行進、停滞の指揮をし」という文言を訴因のいわゆる結びの文言であると読めば、それ以外の隊列違反の指揮が訴因に含まれていると解する余地はないことになるが、それがいわゆる結びの文言でないことは当該文体のうえからみて明らかである。)。ただ、それにしても、このような訴因の記載のしかたはかなり明確を欠くもので、訴因の明示を必要としている刑訴法二五六条三項の趣旨からいつても、そのままで有効であるかどうかについては疑問がある。しかし、この程度の訴因の不明確性は事後における検察官の釈明等によつて補正し有効とすることが可能であると解されるところ、検察官の昭和四一年七月一一日付冒頭陳述要旨のうち右公訴事実に関する三七頁以下の記載(原審第一記録のうち第二冊一二九丁以下)によれば、被告人岡部の六列ないし一二列での隊列違反の行進の事実もまた許可条件二の1(「行進隊形は五列縦隊……とすること」)の違反として「犯行の状況」の項の中に明記されているのであり、右冒頭陳述は当該公訴事実をより詳細・明確に説明したものとして一種の釈明の性質をあわせ有するものと解することができるから、被告人岡部の隊列違反の訴因はこれによつて明確にされ、当初の不備は補正されたものというべく、したがつて、原判決が被告人岡部につき隊列違反の事実を認定したことが訴因外の事実を認定した違法なものとはいうことができない。それゆえ、この点の論旨は理由がない。

控訴趣意第四の三の(二)――一一・五事件(被告人岡部に関する部分)――について。

論旨は、かりに被告人岡部に対し隊列違反の集団行進の指揮が審判の対象となつているとしても、同被告人においてこれを指導したものではないから、原判決には法令適用の誤りないし事実誤認がある、というのである。

しかしながら、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人岡部は原判示のように昭和四〇年一一月五日日比谷公園西幸門から霞ケ関交差点付近に至る道路上において約一〇列の学生隊列の先頭列外に位置し、両手を振つて手招きをし、号笛を吹き後向きあるいは前向きとなつて約一〇列での行進を指揮誘導したことが明らかであつて、同被告人が指示して隊列を右のように約一〇列にしたものではないにしても、右集団行進の指揮誘導者として隊列を正常に復すべき義務があつたのであり、かつ同被告人の指導によつてそのことは可能であつたのに、これを怠つたというよりはむしろこれを容認、利用し、右隊列の先頭列外にあつて前記先頭列外にあつて前記のように集団行進を行なわせたものであるから、隊列違反を指導した責任を免れるものではない。してみれば、原判決の認定は正当であつて、さらに一件記録および証拠物を検討しても、原判決の認定に判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令の適用の誤りがあるとはいえない。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第四の三の(三)――一一・五事件(被告人岡部、同前沢、同小島)――について。

論旨は、一一・五事件(原判示罪となるべき事実(四))に関する被告人岡部、同前沢、同小島の右所為、すなわち被告人岡部の隊列違反の行進の指揮誘導(同(四)(1)の(イ))、ことさらな停滞の指揮(同(四)の(1)の(ロ))、同前沢のことさらなすわり込み(同(四)(1)の(ハ))、ことさらな停滞(同(四)の(1)の(ニ))の指揮および同小島のことさらなすわり込み(同(四)の(2))の指揮等は、その時間、場所、態様等を考えると、交通秩序をみだす度合はきわめて少なく、いずれも実質的違法性ないし可罰的違法性を欠くにもかかわらず、有罪を認定した原判決には法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、原判示のように集団行進に参加した約九〇〇名の学生は、当日午後七時ころ日比谷公園西幸門を約一〇列の隊列を組んで出発してから、都市中心の重要な街路上において警察官の規制にあつて激しいもみ合いをし、東京家庭裁判所角交差点付近でことさらに停滞し、その後七列ないし一〇列位の隊列で行進し、さらには五、六列位となり、警察官と衝突してもみ合い、さらに歩道上あるいは車道上を行進して参議院議員面会所前に到着し、午後七時四七分ころから午後七時五七分ころまでことさらにすわり込んだものであるが、被告人岡部はその間日比谷公園西幸門から霞ケ関交差点に至る道路上において約一〇列でのかけ足行進を指揮し、また東京家庭裁判所角交差点においてことさらな停滞を指揮し、同前沢は右の参議院議員面会所前でのことさらなすわり込みを指揮し、さらに午後八時三七分ころ参議院議員会館横道路上に停滞していた学生集団を参議院の方向に反転させ、原判示のように右集団を前記議員面会所の方へ誘導し、ことさらな停滞を継続するように指揮したものであつて、被告人らの右の各所為が集団による表現活動として欠くべからざるものであるとは認めがたい反面、右のような集団行動の参加人員、日時、場所、規模態様等にかんがみれば、被告人岡部の右隊列違反の行進および停滞の指揮、同前沢の右すわり込み、停滞の指揮など被告人らの各所為が著しく交通秩序をみだし、都民等の社会生活にも重要な障害を及ぼすおそれがあると認められることは前に説示したところからも明らかであつて、集団行動としての相当な範囲を逸脱したものと認めるべきであるから、違法性を欠くか、あるいはそれがきわめて軽微であつて可罰的違法性を欠くものとはいいえない。また、被告人小島は、同日午後七時四七分ころから午後七時五七分ころまでの間、学生集団とともに本件集団行進に参加した全逓信労働組合員約二〇〇名が参議院議員面会所通路にことさらにすわり込んだ際、右面会所前道路(車道)でことさらなすわり込みを指揮したものであつて、これもまた前と全く同様の理由により違法性そのものないしは可罰的違法性を欠くものとはいえない。それゆえ、論旨はすべて理由がない。

控訴趣意第四の四――一一・九事件(被告人前沢)――について。

論旨は、警察官による事前折衝は強圧的・威圧的で代決権限の範囲をこえて行なわれたものであり、かつ集団行動に対する警察官の実力規制は濫用にわたり公訴権の濫用があり、また「かけ足行進」は概念として明確でないうえに、かけ足行進によつて交通障害を惹起する可能性はなく、本件において交通障害を惹起したことの証明もない。さらに、被告人前沢が原判決認定の条件違反の行為を指導したことを認める適法な証拠はないのであるから、有罪を認定した原判決には事実誤認がある、というのである。

しかしながら、一一・九事件について原判決の挙示する関係証拠によれば、所論の事前折衝について原判決の認定判断するところは正当であつて、本件の事前折衝が特に強要的・威圧的であつたとは認められず、また係官は公安委員会の方針に従つて折衝に当たつたものであり、別段そこに権限を越えた行為があつたものとも認められない。所論はまた警察官の実力行使が濫用にわたつているから公訴権の濫用であるとも主張しているが、かりに警察官の本件における実力規制が所論のように度を過ぎたものであつたとしても、条件に違反する行為を指揮した者に対する公訴提起がそのために公訴権の濫用になるという所論は理解に苦しむところであつて、とうてい採用しがたい。次に、所論はことさらなかけ足行進によつて交通障害を惹起する可能性はなく、現に本件においてもこれを惹起したことの判示または証明がない、とも主張する。しかし、交通秩序維持に関する条件としての「ことさらなかけ足行進」の禁止に合理的な根拠があることについてはすでに弁護人の控訴趣意第三の三の(二)に対する判断の中で説示したとおりであるし、その違反は別に交通障害の実害を発生しなければ処罰の対象とならないものではない。そして、原判決は本件においてことさらなかけ足行進の行なわれた場所、日時、その態様などを証拠に基づき具体的に判示しているのであつて、これによれば本件のかけ足行進が交通秩序を乱し、一般市民の社会生活にも少なからざる支障を及ぼすおそれの現に存するものであつたことはおのずから明らかであるから、この点の主張も採用することができない。なお、被告人前沢が原判決認定の条件違反行為を指揮誘導したことは原判決挙示の証拠によつて十分に認められるところであり、一件記録を調査しても、右証拠が証拠能力を欠く違法なものであるとは認められず、また、一件記録、証拠物および当審における事実取調の結果に徴してもこの点につき事実誤認を疑わせるに足りるものはない。

それゆえ、論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第五――一一・一一事件(被告人国吉)――について。

論旨は、原判決は、被告人国吉が指揮した集団示威運動は当日許可を得ていた全国実行委員会主催の集団示威運動とは別個独立のものであると判示するが、これは著しく事実を誤認し、法令の適用を誤つたものである、というのである。

しかしながら、原判決挙示の証拠によれば、本件示威運動は許可を受けた全国実行委員会主催の集団示威運動を終つたのち、許可を受けない一部の参加団体が解散することなく独自の行動として許可の内容とは逆の進路をとつて示威行進を始めたもので、原判示のように右の許可された行動の一環とはいいえない別個独立のものであると認めるのが相当である。そして一件記録および証拠物を検討しても、この点に関する原判決の認定に事実誤認を疑わせるものはない。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第四の六――一一・一二事件(被告人山崎)――について。

論旨は、本件集団行進に付された「行進隊形は五列縦隊とすること」との許可条件が、かりに合憲であるとしても、本件集団行動の目的、意義、場所、区間、時間、交通阻害の状況などからして被告人山崎の行為には可罰的違法性がないから、原判決には法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、被告人山崎が、原判示の日時(午後四時三分から四時一一分ころまで)、首都中心部の街路上において行なわれた学生てい団約六〇〇名の隊列五列をこえる約一〇列の集団行進に際してその隊列違反を指揮誘導した所為は、五列でなく約一〇列の隊列をとることが表現活動のうえで有する意義と右日時場所において約六〇〇名の集団が基本隊列の二倍にあたる約一〇列となつて行進したことが著しく交通を阻害し、都民等の社会生活の利益に重要な障害をもたらすおそれがあつたものであることとを彼此較量すれば、集団行動としての相当性の範囲を逸脱したものであり、被害法益の大きさとの関連においてきわめて軽微な違法性を有するにすぎないものとして可罰的違法性を欠如するものとは解しえない。したつて、原判決が被告人山崎の本件所為について可罰的違法性を認め、都公安条例違反罪が成立するとしたのは正当であつて、法令の解釈適用に誤りがあるとはいえない。それゆえ、論旨は理由がない。

(被告人らの控訴趣意に対する判断)

論旨は、原判決は基本的に矛盾にみち、公正をよそおいながら一方の側に立つものであつて、不当な日韓条約批准に反対する被告人らの実力斗争の正当性を認めない原判決には事実誤認ないし法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、原判決挙示の関係証拠によれば原判示事実を認定することができ、一件記録および証拠物を検討し、当審における事実取調の結果に照らしても、原判決に所論のような判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認を疑わせるに足りるものはない。所論指摘の原判決が事件の背景として判示する部分も、被告人らが本件集団行動を行なうに至つた経緯を客観的に叙述したものであり、原判決が一方の側に立つて不公正な判断を示したものでないことは判文自体からみてもまた記録に徴しても明らかである。また、所論は被告人らの実力斗争は全く正当であつたと主張するのであるが、憲法によつて保障された集団行動の自由はもとよりり十分に尊重されなければならないけれども、その権利行使は無制限に許されるものでなく、その手段方法が社会通念上相当な範囲を逸脱した場合に違法とされる場合のあることは、その権利の内在的制約として認めなくてはならない。そして、その違法性の有無は当該集団行動について個々具体的な検討をまたねばならないところであるが、この点に関する判断は弁護人の控訴趣意に対する判断の中ですでに示したとおりであるから、ここに改めて繰り返さない。

これ要するに、原判決には所論の事実誤認ないし法令適用の誤りはなく、論旨はその理由なきに帰する。

(検察官の控訴趣意に対する判断)

論旨は、原判決は、都公安委員会が昭和四〇年一〇月一五日夜および同年一一月五日の国会請願のための集団行進を許可するに際し「秩序保持に関する事項の4」として付した「放歌、合唱、かけ声、シュプレ・ヒコール等、示威にわたる言動は行なわないこと。」という条件は違法・無効であるから被告人国吉、同斎藤、同玉川、同前沢が合唱、シュプレ・ヒコールを指導した行為は罪とならない旨判断しているが、右判断は明らかに法令の解釈適用を誤つたものである、というのである。

そこで考えてみるのに、都公安条例一条・二条をみると、同条例は集団行進と集団示威運動とを区別し、これらを行なおうとする者はそれぞれ別個に東京都公安委員会の許可を受くべきものとしている。そして、このうち、集団行進とは多数の者が一定の目的をもつて集団として行進することをいうのに対し、集団示威運動とは多数の者が一定の目的をもつて公衆に対し気勢を示す集団としての行動であるということができる。したがつて、集団示威運動の形態は必ずしも行進であるとは限らないが、行進の形態をとる場合が多いこともみやすいところである。そこで問題は、集団示威運動が行進の形態で行なわれた場合の集団行進との区別であるが、多数の者が集団として行進すること自体に必然に伴う示威的作用は別として、公衆に対し気勢を示す示威的行動を伴うものが集団示威運動であり、これを伴わないものが集団行進にあたると解すべきである。そうしてみると、この二者を区別し、それぞれ別個の許可の対象としている都公安条例のもとにおいては、集団行進の許可を受けているにすぎない者は集団示威運動の性質をもつ行為を行なつてはならないのであり、もしこれを行なえばそれはまさしく許可申請をせず許可を受けないで集団示威運動を行なつたことになるといわなければならない。

ところで、ここで問題となつている一〇月一五日夜、一一月五日の各集団行進については、許可にあたり前記のように「放歌、合唱、かけ声、シュプレヒ・コール等、示威にわたる言動は行なわないこと。」という条件が付されている。これは、民法でいう条件とは異なり、行政行為である許可処分にあたり、その付款として、相手方に対しこれに伴う特別の義務を命ずる意思表示たる講学上のいわゆる負担たる性質を有するものであること前にも述べたとおりであるが、前記のように、集団行進の許可は受けたが集団示威運動の許可を受けていない者は、すでに右条例の規定上当然に示威にわたる言動を行なつてはならない義務を負つているのであるから、これに対し重ねてかような言動をしないことを命ずることは法的に無意味であり、したがつてそれは厳密には法的効力を有する条件(負担)ではなく、単に条例の規定の遵守を促す注意事項以上の性質をもつものではないと解するのが相当である。

もつとも、集団行進に参加した者の中に右のような示威的言動に出た者があつたとしても、それが集団としての行為とみる程度に達しないときは、まだ集団示威運動が行なわれたということはできず、一部にもせよそれが集団の行動と目される程度に至つてはじめてその行為が集団示威運動に転化すると考うべきであるから、その程度に達しない場合を規制するためこの条件に意味があるという考え方もあるかもしれない。しかし、都公安条例は集会、集団行進、集団示威運動を通じ、集団的行動なるがゆえにこれをその対象としているのであつて、個々人の行為の規制を目的としたものではない。また、個々人の行為ならば特に条例をもつて規制する実質的理由に乏しいのである。かように考えると、前記条件にいう「放歌、合唱、かけ声、シュプレヒ・コール等、示威にわたる言動」というのは、その人数の多寡はともかく、いずれにしても集団的行動としてなされるものを指していると解すべきものであり、このことは検察官の控訴趣意も認めているところである。そうすると、この条件で禁ぜられている行為をすることは、前述のとおりすべて集団示威運動に該当するというほかはない。

これを本件についてみるに、被告人国吉、同斎藤は、一〇月一五日夜の集団行進において、参議院議員面会所前にすわりこんだ多数の学生らが「日韓条約粉砕」「実力で阻止するぞ」「ポリ公帰れ」等のシュプレヒコール、あるいは「インターナショナル」「がんばろう」の合唱をした際その音頭をとつて指導したというのであり、被告人玉川は、同夜の集団行進において、前同所にすわり込んだ約二五〇名の社青同員が「日韓条約粉砕」「実力で粋砕しよう」「最後までがんばろう」等のシュプレヒコールをした際、その音頭をとつてこれを指導したというのであり、被告人前沢は、一一月五日の集団行進において、参議院議員面会所前にすわりこんだ多数の学生らが、「日韓条約粉砕」「日韓強行採決反対」「われわれは最後まで斗うぞ」等のシュプレヒコールをした際、右シュプレヒコールの音頭をとつてこれを指導したというのであるから、右の学生らおよび社青同員が右のようにシュプレヒコールまたは合唱をした行為は、その限りにおいて集団示威運動にあたるといわざるをえない。そうであるとすれば、被告人国吉、同斎藤、同玉川、同前沢の前記行為は、これを無許可集団示威運動の指導として論ずるのは格別、集団行進につき付せられた前記条件の違反行為の指導として処罰することはできない筋合いである。

それゆえ、原判決がこれらの行為を罪とならないものとしたのは結局その点において正当であり、法令の解釈適用に誤りがないことになるから、論旨は理由がないといわざるをえない。

(むすび)

以上の次第で、本件各控訴は刑訴法三九六条によりいずれもこれを棄却することとし、当審における訴訟費用を被告人らに負担させないことにつき同法一八一条一項但書を適用して、主文のように判決する。

(中野次雄 藤野英一 粕谷俊治)

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